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【2025/03/10 23:12 】 |
n046 信長元服 (細川家)12
第二次包囲網の脅威も去り、細川領内には久方ぶりの平穏な日々が訪れていた。とは言え、次の戦乱に備え、諸将は鍛錬に明け暮れている。特に織田信長の鬼教官ぶりは有名で、教えを乞おうと連日のように人が訪れていた。
 

 その頃、室町御所では細川家臣団において謀略を担う南光坊天海が、波多野家と三木家の凋落ぶりを主君晴元に説いていた。諜報活動を進めた結果、当主波多野晴通や三木直頼に最早天下を狙う気概はなく、武田家や当家への恭順を促す一派さえ家臣に現れているというのだ。報告を聞いていた晴元は早速彼らを取り込むべく手を打つよう指示をした。三好長慶、北畠晴具がそれぞれ調略に赴くことになったが、およそ半月後には彼らから吉報が齎された。双方共に細川家取込に成功したとのことだった。


 岐阜城では竜之介と咲が城下町の整備に共同で取り組んでいた。一時の脅威が去ったとは言え、まだまだ武田家の底力は脅威である。岐阜城を東国の荒波から細川領全土を守る防波堤とし、かつ東国に攻め入る際には前線拠点とするべく、一刻も早くこの美濃の地を栄えさせる必要があった。領民と一緒になって、荒地の開墾や寺の建立などに当たり、共に笑い、共に悩み、美濃の為に何とかしようと必死になっているうちに、二人の信頼関係はより深くより強固になっていくのだった。
「そこのお新香、取ってもらえるかな。」
「やだ~竜之介さんったら、ほっぺにごはん粒が付いてますよ。」
 お昼ごはんの最中のやりとりもすっかり夫婦漫才のようになりつつある。先日村の子供たちにもそのことでからかわれ、二人は顔を赤らめたものだ。この人となら・・二人の間に大きくなっている気持ちはすっかり不動のものになりつつあった。
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【2015/11/14 12:34 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
n045 信長元服 (細川家)11
再び、細川家への包囲網が結成された。盟主を甲斐の武田晴信とする今度の包囲網には尾張の織田、越前の朝倉、安芸の毛利、備後の浦上家、南伊代の西園寺家、そして西土佐の一条家が参加している。
 晴元は包囲網の切り崩しの為、浦上家に降伏を迫ることにした。姫路城に兵を集め、圧力をかけつつ時を見計らった上で、満を持して使者を派遣したところ、当主・浦上宗景はあっさりと白旗を上げたものである。


 西の調略が奏功した途端、東では武田家と織田家が侵攻を始めたとの報が伝わった。それに呼応するかのように、北では朝倉家が本拠一乗谷城と弓木城からそれぞれ兵を出し、西からは毛利家、西園寺家と一条家も出撃準備を始めたとの知らせが入った。晴元は予め各地に配しておいた諸将にそれぞれ迎撃を命じた。


 いち早く戦果を挙げたのは、先に晴元が次女扇を娶らせた十河一存率いる岡豊城の面々であった。一存と杉隆滋率いる足軽隊が競うように一条勢を撃破し、余勢を駆って防備の手薄となった中村御所に攻め込んだのだ。多くの傷兵を出しているようだが、陥落は時間の問題であろう。
 

 支城・長島城を築城し、城主として着任していた遼太郎は鉄砲隊を率いて織田勢にかなりの手傷を負わせることに成功した。織田信長は自軍の被害が大きいことを悟ると、早々に退却を各隊に指示した。その手際は見事といえるもので、遼太郎も深追いを避け、長島城の東にいくつかの櫓を建設してから城に帰還した。織田勢の再度の侵攻は当面ないと見て間違いなさそうだ。

 
  湯築城は毛利勢と西園寺勢との二正面戦線を強いられていた。十河城から7万もの援軍を得て、守将・村上武吉は隊を大きく2つに分け、それぞれ毛利勢と西園寺勢に当たらせることにした。すでに要所には砦と櫓を建設済みで、それら防衛線での攻防が繰り広げられている。特に毛利勢は総大将・毛利元就自らが出張ってきており、注意が必要だった。
  
 
 朝倉勢は先述のとおり、二方面から兵を展開してきたが、観音寺城と小谷城からそれぞれ迎撃の兵が出陣した。砦での攻防があったものの、朝倉勢が早々に弓木城へ兵を引き揚げた為、主力を温存できた観音寺城勢は、兵が皆出払っている為、守りが手薄になっている小谷城への入城を目指している。岡田三郎太および長尾咲率いる小谷城勢は一戦して朝倉勢を大破し、現在一乗谷城へと撤退を計る朝倉勢を追撃している。早晩攻城戦が展開されるだろう。
 追撃戦の最中、咲は出陣前の僅かな余暇を利用して、竜之介と芝居見物に興じたことを思い出していた。芝居に誘ったのは竜之介の方だった。遼太郎と桜姫の祝言以降、遼太郎のことを好いていた咲はしばらく失意の日々を送っていたが、北近江の地で過ごすうちにその悲しみも幾分か和らいできていた。見物した芝居は純粋に面白かったし、誘ってくれた竜之介の気遣いも嬉しくて、とても楽しい一日だった。声を上げて大笑いしたのはおそらく久しぶりのことだったろう。
 出陣前夜、景気付けと称して酒を持って訪れた竜之介に、再会を期して咲も少々付き合った。それぞれ違う方面への出撃になるわけだが、互いに無事で会えたらと思う。咲自身もまだ気づいていない心境の変化が生じていた。
 

 最も多くの兵を繰り出してきたのが、武田家である。勇将・磯野員冒は地元の百足衆を味方につけ、合わせて3万近い兵を動員してきたのだが、対する竜之介は足軽に長じた足利義輝や柳生一族を率いて足軽主体の編成で出撃した。砦からの支援もあって、難なく敵軍を蹴散らした竜之介達はさらに武田領へと進攻し、岐阜城へと迫った。岐阜城からは明智光秀隊が迎撃の為、出陣してきたが、近隣の村々を懐柔しながら堅実に寄せてくる細川勢の手際に老練さを感じ、侮りがたしと判断して、一戦も交えずに帰城してしまった。
 知らず若くして年寄りくさいと評された竜之介だったが、当人はいたって真剣だった。何せ強大な武田家との大事な緒戦である。細川家手強しと精神的負い目を感じさせるぐらい圧勝する必要があると考えていた。この時、傍らにいた百戦練磨の柳生家厳・宗厳父子にして少々怯ませるほどの凄みを竜之介は放っていたという。
【2015/11/09 02:34 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
n044 信長元服 (細川家)10
北田義孝、香里夫妻に子供が生まれた。
 とても愛らしい男の子で、早々に元気な泣き声をあげては義孝をオロオロさせていた。小さな赤子に振り回されっぱなしの姿は、戦場や朝廷内での堂々とした立ち居振る舞いをする彼からはおよそ想像できないものである。
「こういう時は男って全く役に立たないものね。」と母親の逞しさを早速見せ始めている香里に呆れられるも、何も反論できずに頭を掻くしかなかった。
 

 主君・晴元も慶事を聞いて大いに喜び、祝いの品々を贈った。主君から立派な贈り物を頂いた新婚夫婦は大層喜んだという。
 
 
  細川家の強大化に脅威を感じていた武田晴信は隣国の斎藤家、上杉家に呼びかけを行い、武田家を核と成す大連合を結成した。思わぬ強敵が東に出現したことで、長慶は主だった重臣を集めて評定を開いたが、対細川包囲網の為に兵を長期に渡って酷使し続けてきた現在の状況では、新たな出兵を行うことは早々にできるわけもなく、前線となる小谷城を中心として東の守りを固くして敵の襲来に備えることが決したのみだった。


 評定ではその他に、遼太郎と竜之介、晴雅が新たな要職に就く事が決まった。武田家の脅威に対抗する為にも、細川家中の軍事的功績をほぼ独占している彼らの発言力をより高めようと、晴元が計らったのだった。三人は引継ぎを兼ねて、評定の後もしばらく京の都に逗留していたのだが、夜は毎晩のように北水館に通っていた頃の思い出を肴に酒を酌み交わすのだった。
 

「最近どーなんすか、竜さん。」
「どうって何が?」
「もートボケちゃって。咲さんですよ。昔から憎からず思ってたんでしょう。同じ近江の地にいて何も進展はないんですか?」

 昨今、小谷城の改築作業や城下街の開発が急ピッチで進んでいるのだが、竜之介は咲とたまたま同組の作業班になったことで、何かと一緒にいる時間が増え、ささやかな幸福をかみしめていたところだった。評定の為に京に呼び出されたことで、その幸福を霧散させる元凶となった武田家には、少なからず怒りを覚えている。
【2015/11/06 00:28 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
n043 信長元服 (細川家)9
細川家包囲網に抗すべく、各地の諸将は立ち上がった。優勢のまま進んでいた伊勢志摩戦線は霧山御所の陥落を以て終結した。また播磨の赤松家、北伊予の河野家は猛反撃を受けるとたちまち降伏した。元々単独では細川家に抗う意思も実力も持たぬ者達である。是非もなかった。


 包囲網を結成した敵の中でも最強とも言える長宗我部家にも最期の時が迫っていた。杉隆滋率いる一万数千の軍勢が昼夜を分かたず攻勢を仕掛け、隙を狙っては松永久秀の放った忍びが総大将・長宗我部元親の身辺を脅かした。


  河野家の降伏を受け、最早援軍も頼みにできない状況で、長宗我部家は粘り強く抵抗を続けてきたが、一ヶ月にも及ぶ篭城戦の末とうとう降伏した。しかし当主元親と数人の重臣は落城と共に姿を晦ませ、その行方は杳としてしれない。


 同じく東では観音寺城にちょっかいを出してきた斎藤勢が竜之介の逆襲を食らい、なんと一気に小谷城を陥落するという体たらくを見せた。しかも当主・斎藤道三が捕縛されるというおまけ付である。だが牢番の隙をついて逃亡した彼は無事に領国まで帰り着いたという。だが多数の斎藤家家臣がまだ牢に繋がれたままであり、道三は捲土重来を誓ったという。


 その頃東の強豪織田家では当主信秀が病に倒れ、うつけと名高い嫡男信長が跡をついだという。東に兵を進めるのに好機が到来したのかもしれない。


 国内では刀狩令が発布され、農民の反乱が抑制されると共に、彼らから集めた刀剣を溶かして百濟王神社大仏が建立された。近くには八幡宮も建設され、枚方は大いに賑わいを見せた。いずれ大社の建設も予定されているとの噂だ。
【2015/11/03 22:34 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
n042 信長元服 (細川家)8
時はまさに乱世である。台頭してきた細川家を、決して他の大名たちは快く思っていなかった。珍しく三好長慶が緊張した面持ちで晴元に面会を求めてきた。
「・・・細川家包囲網が、形成され申した。」


 北畠家、赤松家、浦上家、河野家、長宗我部家が一斉に細川領内への進攻を始めた。だが細川家の主力軍は現在、六角家の拠点・観音寺城へ攻めている最中である。一刻の沈黙の後、晴元は彼らに攻城戦を継続させることにした。代わって、領内の城主たちに「各個目の前の敵に全力で当たり、持ち場を死守せよ。」との指示を下した。
 

 果たして、観音寺城を攻める主力軍が見事攻城戦に勝利した。ここに名門六角家は滅び、細川家は南近江を手中にしたのである。だが城の修復や周辺の防衛戦の構築など、戦後処理の為、数ヶ月は彼らは身動きが取れないであろう。領内の防衛に彼らを当てにするわけにはいかなかった。


 四国方面を任されている松永久秀は大胆にも、敵を自国領内までおびき寄せる作戦を取った。敵の兵站が伸びきったところを叩く作戦である。久秀は家臣から上がってくる報告を一つ一つ慎重に検討していた・・・。
 十河城の西には当主・河野通直自ら率いる河野勢が砦の攻略にかかっているが、お世辞にも戦上手とは言えず、細川家の兵と一戦交える前から、行軍中に随分と兵を減らしているようである。兵力は一万足らずであり、砦を落とすまでにまださらに兵を消耗することだろう。
 
 浦上家の兵の士気が低いことは事前に忍から齎される情報で判明していた。おそらく同盟国の手前、出兵する形式だけを取って義理を果たし、細川家の勢いを他国が削いでくれるのを待っているに違いない。おそらく大軍を持って、矛を交えればあっと言う間に逃走するだろう。深追いは避け、敵の退却を見て取ったら、すぐさま城に取って返し、西から来る河野軍に備えるのが妥当である。
 
 厄介なのは長宗我部軍である。兵の質量ともに脅威で街の一つや二つは一時的にくれてやることを覚悟せねばなるまい。だが勝瑞城の守りは固く、兵力でも圧倒的に勝っている。最終的な勝利は約束されているが、ただ待つことを良しとせず久秀は一万二千の兵を率いて一戦当たってみることにした。長宗我部の兵の強さを知っておくことは今後を思えば決して無駄にはなるまい。


 石山御坊では国境に砦や多数の櫓を建設して赤松家の攻略を手間取らせていた。消耗しきったところを城内から出撃させた迎撃隊で一気に壊滅に追い込む算段である。そして形勢は今の所、目論見どおりに推移していた。


 現時点で一番成果を上げているのは筒井城だった。押し寄せる北畠の兵を難なく蹴散らすと、そのままの勢いで伊勢志摩の霧山御所目がけて逆に進攻を始めたのである。霧山御所の守兵は少なくわずか8千程度であり、雑賀城から駆けつけた援兵を合わせれば2万にも及ぶ細川勢の敵ではないだろう。
 

 諸将が各地で奮戦する中、枚方城では城下の片埜神社に五重塔が建設され、その天高く聳え立つ荘厳な姿が民衆の喝采を浴びていた。まさに包囲網が結成されている状況とは思えぬ、晴元の振る舞いである。その余裕ぶりに民は安心を覚え、日々の生活を放り出してまで国外へ逃亡を図る者は少なかったという。仮に晴元の態度が虚勢であったとしても、決してそれを当人は認めなかっただろう。民や家臣の上に立つ者とはそういうものだと、彼は十分心得ているのだから。
【2015/11/02 14:35 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
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