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【2024/04/28 16:57 】 |
n043 信長元服 (細川家)9
細川家包囲網に抗すべく、各地の諸将は立ち上がった。優勢のまま進んでいた伊勢志摩戦線は霧山御所の陥落を以て終結した。また播磨の赤松家、北伊予の河野家は猛反撃を受けるとたちまち降伏した。元々単独では細川家に抗う意思も実力も持たぬ者達である。是非もなかった。


 包囲網を結成した敵の中でも最強とも言える長宗我部家にも最期の時が迫っていた。杉隆滋率いる一万数千の軍勢が昼夜を分かたず攻勢を仕掛け、隙を狙っては松永久秀の放った忍びが総大将・長宗我部元親の身辺を脅かした。


  河野家の降伏を受け、最早援軍も頼みにできない状況で、長宗我部家は粘り強く抵抗を続けてきたが、一ヶ月にも及ぶ篭城戦の末とうとう降伏した。しかし当主元親と数人の重臣は落城と共に姿を晦ませ、その行方は杳としてしれない。


 同じく東では観音寺城にちょっかいを出してきた斎藤勢が竜之介の逆襲を食らい、なんと一気に小谷城を陥落するという体たらくを見せた。しかも当主・斎藤道三が捕縛されるというおまけ付である。だが牢番の隙をついて逃亡した彼は無事に領国まで帰り着いたという。だが多数の斎藤家家臣がまだ牢に繋がれたままであり、道三は捲土重来を誓ったという。


 その頃東の強豪織田家では当主信秀が病に倒れ、うつけと名高い嫡男信長が跡をついだという。東に兵を進めるのに好機が到来したのかもしれない。


 国内では刀狩令が発布され、農民の反乱が抑制されると共に、彼らから集めた刀剣を溶かして百濟王神社大仏が建立された。近くには八幡宮も建設され、枚方は大いに賑わいを見せた。いずれ大社の建設も予定されているとの噂だ。
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【2015/11/03 22:34 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
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