時はまさに乱世である。台頭してきた細川家を、決して他の大名たちは快く思っていなかった。珍しく三好長慶が緊張した面持ちで晴元に面会を求めてきた。
「・・・細川家包囲網が、形成され申した。」
北畠家、赤松家、浦上家、河野家、長宗我部家が一斉に細川領内への進攻を始めた。だが細川家の主力軍は現在、六角家の拠点・観音寺城へ攻めている最中である。一刻の沈黙の後、晴元は彼らに攻城戦を継続させることにした。代わって、領内の城主たちに「各個目の前の敵に全力で当たり、持ち場を死守せよ。」との指示を下した。
果たして、観音寺城を攻める主力軍が見事攻城戦に勝利した。ここに名門六角家は滅び、細川家は南近江を手中にしたのである。だが城の修復や周辺の防衛戦の構築など、戦後処理の為、数ヶ月は彼らは身動きが取れないであろう。領内の防衛に彼らを当てにするわけにはいかなかった。
四国方面を任されている松永久秀は大胆にも、敵を自国領内までおびき寄せる作戦を取った。敵の兵站が伸びきったところを叩く作戦である。久秀は家臣から上がってくる報告を一つ一つ慎重に検討していた・・・。
十河城の西には当主・河野通直自ら率いる河野勢が砦の攻略にかかっているが、お世辞にも戦上手とは言えず、細川家の兵と一戦交える前から、行軍中に随分と兵を減らしているようである。兵力は一万足らずであり、砦を落とすまでにまださらに兵を消耗することだろう。
浦上家の兵の士気が低いことは事前に忍から齎される情報で判明していた。おそらく同盟国の手前、出兵する形式だけを取って義理を果たし、細川家の勢いを他国が削いでくれるのを待っているに違いない。おそらく大軍を持って、矛を交えればあっと言う間に逃走するだろう。深追いは避け、敵の退却を見て取ったら、すぐさま城に取って返し、西から来る河野軍に備えるのが妥当である。
厄介なのは長宗我部軍である。兵の質量ともに脅威で街の一つや二つは一時的にくれてやることを覚悟せねばなるまい。だが勝瑞城の守りは固く、兵力でも圧倒的に勝っている。最終的な勝利は約束されているが、ただ待つことを良しとせず久秀は一万二千の兵を率いて一戦当たってみることにした。長宗我部の兵の強さを知っておくことは今後を思えば決して無駄にはなるまい。
石山御坊では国境に砦や多数の櫓を建設して赤松家の攻略を手間取らせていた。消耗しきったところを城内から出撃させた迎撃隊で一気に壊滅に追い込む算段である。そして形勢は今の所、目論見どおりに推移していた。
現時点で一番成果を上げているのは筒井城だった。押し寄せる北畠の兵を難なく蹴散らすと、そのままの勢いで伊勢志摩の霧山御所目がけて逆に進攻を始めたのである。霧山御所の守兵は少なくわずか8千程度であり、雑賀城から駆けつけた援兵を合わせれば2万にも及ぶ細川勢の敵ではないだろう。
諸将が各地で奮戦する中、枚方城では城下の片埜神社に五重塔が建設され、その天高く聳え立つ荘厳な姿が民衆の喝采を浴びていた。まさに包囲網が結成されている状況とは思えぬ、晴元の振る舞いである。その余裕ぶりに民は安心を覚え、日々の生活を放り出してまで国外へ逃亡を図る者は少なかったという。仮に晴元の態度が虚勢であったとしても、決してそれを当人は認めなかっただろう。民や家臣の上に立つ者とはそういうものだと、彼は十分心得ているのだから。

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