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【2025/03/10 19:50 】 |
n051 信長元服 (細川家)17
咲が心身ともに疲労困憊しながらも何とか敗残兵を纏め上げ、武田勢の追撃を振り切って命からがら高遠城に逃げ帰ることができた。妻の無事を祈るように願っていた山中竜之介はことのほか再会を喜び、感涙して抱き合った。
 そして数週間後には、足利義輝ら精鋭と共に復仇戦を挑むべく、葛尾城へと出立した。その動きに呼応して駿府館からは遼太郎らが小田原城攻略の為の兵を挙げることになっている。一大反攻作戦の始まりであった。
 葛尾城にて、しばらくは諸将らとともに久々の勝利の美酒に酔いしれていた武田晴信だったが、細川兵再来の報を聞き早々に戦支度を整えていた。名将の称号は伊達ではなく、細川勢が押し寄せる頃には城の修復を完了させている辺りは流石というほかない。だが、その名将の采配をもってしても今度の細川方の強健ぶりには劣勢を余儀なくされていた。
 強い、迅い、固い・・どれをとっても先日の軍勢とはまるで違っていた。まるで、どこか全く違う軍勢と相対しているかのように、その変貌振りには晴信も驚かされていた。
「これが細川の真の実力というわけか・・。まさかこれほどとは・・。」
 竜之介の指揮により水を得た魚のごとく、細川方は自在に陣形を変形させ、戦場を蹂躙していた。野戦での迎撃に失敗した武田信繁は、篭城戦の支度をするよう兄に訴えたが、春日山城方面から岡田三郎太の軍勢が迫っていることを察知していた晴信は早々に葛尾城の放棄と後方への退却を全軍に命じた。「だが易々とこの城を落とせるとは思うなよ。」
 死兵と化した信繁率いる守備隊の頑強な抵抗に、さすがの竜之介も手を焼き、晴信はその間に長男・義信が守る箕輪城へと退却することができた。ほどなくして葛尾城がついに落ちたが、守将の信繁は脱出に成功し、捕縛されることはなかったという。竜之介は武田の勇将の活躍ぶりをむしろ称賛し、それ以上の追撃を行わず、葛尾城の修復と城下の民の鎮撫を傘下の将に命じた。こうして信濃平定戦は幕を閉じた。


 遼太郎らの攻撃により小田原城が落ちるのもほぼ同時だった。上杉謙信による迎撃すらも寄せ付けることなく、常に安定した戦いを見せたことで、遼太郎の戦場での名声も高まるばかりである。
 天下の名城が手中に入ったこと、今後東国の平定が控えていることを受け、細川晴元は居城を小田原に移すことを決め、一族と共に移り住んだ。大阪城には三好長慶を残し、後方支援に専念させることにした。小田原に移った晴元は、遼太郎らに早速城の改築と城下町の整備に当たるよう命じている。


 ここに来て、宿敵・武田家の凋落ぶりは火を見るよりも明らかになった。信濃、相模伊豆と2カ国を細川家に奪われ、里見家には武蔵の地を追われた現状に、一時の興隆は見る影もない。九州を制圧し、関東より西をすべて手中におさめた細川家との勢いの差は一層際立っていた。


 晴元は武田晴信をさらに追い詰めるべく、葛尾城より足利義輝隊、躑躅ヶ崎館より織田信長隊に出兵を命じた。指示を受けた二将は早々に兵の編成を終えるとそれぞれ岩付城、河越城への進攻を開始した。
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【2015/11/27 01:10 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
n050 信長元服 (細川家)16
晴雅による単独三河攻略が成り、松平家は細川家の軍門に下ることになった。この一戦を持って彼の武勇は竜之介と比肩されるほどになっている。本人がその話を聞けば調子に乗る為、枚方衆の面々は表立っては口にしようとしないが・・。
 その頃、北田義孝の朝廷工作により、武田家が朝敵とされることになった。それにより武田晴信を盟主とする細川包囲網は瓦解し、武田家と誼を通じていた各国が同盟関係を相次いで打ち切るという事態になった。早くも武田家支配集落の民からも嫌煙ムードが漂っているとのことだった。


 義孝の調停工作はそれに留まらず、細川晴元の関白就任が決定した。晴元の念願であった朝廷の下で日本を一統する夢がまた一つ適ったのである。合わせて細川家臣団にも続々と高位が授けられ、中でも遼太郎は太政大臣に任命されるという栄誉を得た。


 晴元は九州を統一するべく、中国、四国から合わせて20万の兵をかの地に送り込んだ。細川家の威光に畏れを抱き、大内家、大友家、伊東家、相良家がこぞって降伏した。龍造寺家は再三の降伏勧告に応じなかった為、兵を繰り出し滅亡に追い込んだ。残る有馬家、肝付家にも兵を差し向け、島津家とは人吉城を挟んで既に攻防が始まっている。いずれにしても九州制圧は間近と言えるであろう。


 そんな中、細川家に凶報が飛び込んだ。岡田三郎太による春日山城奪取、山中竜之介による躑躅ヶ崎館奪取に続き、6万もの大軍を送り込んで行われた葛尾城攻略が失敗に終わったというのである。武田晴信自らが出撃して行われた迎撃戦はすさまじく、細川方の将の討死、捕縛が相次ぎ、部隊は壊滅、救援に向かった咲ら自身も必死の退却を続けているとのことだった。
【2015/11/22 23:31 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
n049 信長元服 (細川家)15
細川晴元は摂津の地に、細川家の新拠点となる巨城を築くよう命じた。遼太郎、北田義孝、宇喜田直家といった築城に秀でた技術を持つ家臣が招集され、この一大プロジェクトを遂行することになった。わずか数ヶ月で築かれた城は晴元によって「大阪城」と命名され、晴元は今後この城で、政を進めることになった。
 ついに細川家による九州征伐が開始され、織田信長や十河一存らが、大内家や大友家の城の奪取に成功していた。また南信濃では竜之介が、駿河では晴雅が武田領の城を落としていた。着実に細川家が版図を広げていた最中、晴元の元に松平家から使者が訪れた。なんと同盟を反故するとの一方的な通告であった。
 よもや同盟国の裏切りに遭おうなどとは思っていなかった晴元は、その温厚な人柄にしては珍しく激昂した。先日松平家の要請を受けて、武田家との連戦を強いられたばかりである。


 晴元は即刻、近隣の清須城、駿府館の諸将に出撃を命じた。無理な徴兵が祟って、一揆の嵐が松平領のそこかしこで吹き荒れる中、細川勢はまっすぐに敵の本城を目指した。民衆の間でも評判の細川家の到来に、三河や遠江の地に住まう百姓達も歓迎し、細川の兵に食料を分け与える者や代えの草鞋を配る者が現れた。おかげで細川勢の進軍はすこぶる順調で、短期間で本城に迫ることが出来た。
 遠江の引馬城は、武田との攻城戦の傷跡が未だに残っていた。堀は破壊され、裸城となってしまっている為、篭城戦は不可能といえる。迎撃に出た兵も晴雅の用兵の前にあえなく壊滅の憂き目を見た。さすがに岡崎城では松平家の四天王がそれぞれ奮戦し、細川方と互角の戦いを演じていた。このまま投入した兵だけで三河攻防戦に挑むか、清洲城に武将を派遣して援兵を出させるか、はたまた高遠城から竜之介に長躯遠征させるか、引き馬城攻略後の晴雅に連戦をさせるか・・・晴元としては思案のしどころであった。
【2015/11/21 23:15 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
n048 信長元服 (細川家)14
晴元の命を受けて、中国地方から大内家を駆逐するべく進撃を続けていた織田信長が、ついに山口館を陥落せしめた。副将の浅木信頼もそこそこ活躍したようだが、信長の前ではその活躍がかすんでしまうのは致し方のないことであろう。
 尾山御坊を落とした勢いで、神山朱音らは本願寺領最後の砦・富山城の攻略に着手した。途中、留守を狙って進攻してきた畠山勢に対し、一隊を反転させて迎撃し、難なく打ち破った。迎撃隊の将・滝川一益は七尾城に篭る将兵が僅かである事を察知すると、そのまま七尾城に攻め込み陥落させた。本隊が富山城を落としてから数日後のことになる。
  戦後、本願寺家及び畠山家の主だった将がことごとく細川家に仕えることになり、その中には絶世の美女と称される十川紅や桑部加世の姿もあった。遠征中の山中竜之介がその報を聞いて小躍りし、妻咲から冷たい視線を浴びせられたというのはまた別の話である。


 時を同じくして、細川家には松平家から高遠城の攻略及び遠江防衛の要請を受け、岐阜城にいる竜之介、咲らと清洲城の青山晴雅に出撃の命が下った。晴雅は遠江に進攻している武田勢を無視して本拠駿府館に攻め入るといった大胆な戦略を取り、結果として泡を食った武田勢が遠江攻略を断念することになった。一説には晴雅お得意の勘違いがたまたま良い方向に転んだだけという見方もあるが、戦場での彼の凄まじさについては皆が認めるところであり、主力をこの地に揃えていた武田家は思わぬ大損害を被ることになった。松平家を滅亡に追い込むどころか、最重要前線拠点が陥落の危機を迎えているのである。


 四国地方においては、黒瀬城に大友家が大挙して進攻してきているが、宇和島港周辺に配された鉄砲砦の数々を落とすことはおそらく不可能であろう。黒瀬城の守将を務める杉隆滋は、主力を一兵たりとも派遣する必要はないと考えていた。
【2015/11/19 02:46 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
n047 信長元服 (細川家)13
竜之介と咲がついに結ばれた。二人の婚儀に細川晴元が奥方を伴って出席したことで、式は大いに盛り上がった。久しぶりに集まった枚方衆による余興に場は沸き、振舞われた酒肉を大いに食らい、戦国の世の憂鬱さを吹き飛ばそうとしているかのように、其の日は朝まで笑いの絶えることがなかったという。

 年が明けて晴元が吉田郡山城への一斉攻撃を命じた。第二次細川包囲網の西の脅威をここらで取り除こうと考えたのである。四国の十河城、湯築城から計4万、播磨の姫路城、備前備中から計4万の大軍が四方から競うようにして毛利領への進攻を開始した。毛利元就、吉川元春、小早川隆景ら毛利の誇る智将・猛将・勇将が迎撃に出たが、さすがに数で押し切られてはどうしようもない。次第に兵を後退させていき、ついには吉田郡山城へと篭ってしまった。さらには細川家が繰り出した工作部隊が並行して毛利領内の各街や村の切り崩しに成功しており、吉田郡山城はまさに孤立無援となってしまった。
 季節が冬から春に変わろうとする頃、元就はついに抗戦を断念、細川家に対し白旗を挙げた。細川勢の大将村上武吉は敵の天晴れな戦いぶりに感じ入り、元就を初めとした敵将らの捕縛を解き、酒まで振舞って彼らの武勲を称えたという。この剛毅な振る舞いに毛利の諸将は感動し、細川家に忠誠を誓うことを約束した。
 この毛利攻めには浅木信頼という北水館出身の男が加わっており、大した武勲を立てた訳ではないが、何の因果か戦後の吉田郡山城の城主に着任している。中四国勢の猛者を束ねる器にはどうしても見えないのだが、それでも諸将が(表向きには?)文句を言わず従っているのだから、正に歴史の妙と言えるのかもしれない。



 毛利攻略の裏では、室町御所、石山御坊、小谷城から派兵された計6万の軍勢が朝倉を降伏させることに成功していた。さらには一色藤長の調略に応じ、尼子晴久が細川家の軍門に降っていた。
 ・・・こうして毛利家、朝倉家、尼子家と、立て続けに武田家以外の参加勢力が滅亡した為、ここに第二次細川包囲網は瓦解した。遼太郎や竜之介といった有力武将を東の備えに残したままこれらをやり遂げたのだから、細川武士の層は厚いといえるだろう。


 信仰の自由を許された細川領内では昨今寺社の建立が著しく、民による祭りが全国で見られるようになった。また細川領内では最新鋭の攻城兵器である大砲というものの開発計画が始まろうとしていた。南蛮から伝えられた技術に工匠らは驚き、苦戦しながらも実現を目指している。


 一乗谷での整備を終えた神山朱音ら越前勢が満を持して加賀への進攻を開始した。小谷城からの援兵も直に駆けつける手はずになっている。尾山御坊は早々に火の手が上がり陥落は秒読みとなったが、救援要請を受けた畠山勢が数十里先まで迫っているとの報も伝わっている。依然として予断を許さない状況だ。
 また再三の平和交渉にも頑として応じようとしない山名家に対しても、攻略を終えたばかりの弓木城と天神山城から計4万の軍勢が西と東から同時に襲い掛かろうとしていた。当主・晴元の平和への希求も空しく、本年の前半は血風が吹き荒れることになった。
【2015/11/15 23:15 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
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