細川晴元は摂津の地に、細川家の新拠点となる巨城を築くよう命じた。遼太郎、北田義孝、宇喜田直家といった築城に秀でた技術を持つ家臣が招集され、この一大プロジェクトを遂行することになった。わずか数ヶ月で築かれた城は晴元によって「大阪城」と命名され、晴元は今後この城で、政を進めることになった。
ついに細川家による九州征伐が開始され、織田信長や十河一存らが、大内家や大友家の城の奪取に成功していた。また南信濃では竜之介が、駿河では晴雅が武田領の城を落としていた。着実に細川家が版図を広げていた最中、晴元の元に松平家から使者が訪れた。なんと同盟を反故するとの一方的な通告であった。
よもや同盟国の裏切りに遭おうなどとは思っていなかった晴元は、その温厚な人柄にしては珍しく激昂した。先日松平家の要請を受けて、武田家との連戦を強いられたばかりである。
晴元は即刻、近隣の清須城、駿府館の諸将に出撃を命じた。無理な徴兵が祟って、一揆の嵐が松平領のそこかしこで吹き荒れる中、細川勢はまっすぐに敵の本城を目指した。民衆の間でも評判の細川家の到来に、三河や遠江の地に住まう百姓達も歓迎し、細川の兵に食料を分け与える者や代えの草鞋を配る者が現れた。おかげで細川勢の進軍はすこぶる順調で、短期間で本城に迫ることが出来た。
遠江の引馬城は、武田との攻城戦の傷跡が未だに残っていた。堀は破壊され、裸城となってしまっている為、篭城戦は不可能といえる。迎撃に出た兵も晴雅の用兵の前にあえなく壊滅の憂き目を見た。さすがに岡崎城では松平家の四天王がそれぞれ奮戦し、細川方と互角の戦いを演じていた。このまま投入した兵だけで三河攻防戦に挑むか、清洲城に武将を派遣して援兵を出させるか、はたまた高遠城から竜之介に長躯遠征させるか、引き馬城攻略後の晴雅に連戦をさせるか・・・晴元としては思案のしどころであった。

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