「退け!退けえええぇ!」

虎太郎の下知が伝わると、蠣崎軍は泡を食ったかのように撤退を始めた。ある者は槍を落っことし、ある者は落馬し、全身泥に塗れながら、満足に統率も取れない状況で個々人ががむしゃらに戦場から離れようと逃げ出していく。見るも無残に潰走して行く様を見た津軽家守備隊は大いに喜び、すぐさま砦から追撃隊が繰り出された。この機会に徹底的に蠣崎家を叩きのめそうというのである。
「おお。守備に徹すべき敵が追い討ちしたくなるほどの無様な敗走振りよの。全くこういう演技ばかり上手くなりよって。虎太郎の奴め、兵に何の調練をしていたんだか・・。」

はるか後方の山中から戦場全体を俯瞰していた竜之介は苦笑いしながら、森林に潜む准太隊に合図を送った。潰走(あくまで擬態である。)を続ける虎太郎隊を追う津軽軍が森林の中の間道に差し掛かった時、突如として准太率いる伏兵隊が襲い掛かった。
話は遡ること3ヶ月前、夏の間に兵の増強を果たした季広は秋の到来を待ち、満を持して宇須岸館に拠る全軍に出陣を命じた。本格的な冬が到来するまでに渡海を果たそうというのである。幸いこれを予期して、早期に秋の収穫を終えていた宇須岸館の兵はいつでも全軍が出陣できる状態に会った。遠征軍本隊の指揮は軍事奉行の宇津井伯楼が任じられた。その他一軍に虎太郎、二軍に准太、状況に応じて臨機応変の働きをすることになる予備軍に長老格の竜之介という布陣である。また別軍として工作隊の指揮を任じられたのは、同じく長老格の遼太郎であった。
「親父、大丈夫かな。重要な任務を任されたけど。」
「准太は父君を過小評価しすぎだって。遼太郎様の工作手腕は、蠣崎家で右に出る者がないだろう。」
「それは知ってるって。技術どうこうはいいんだよ。肝心なのは戦場での胆力っつーかさ。敵兵の矢弾がばんばん飛んで来る中で、城を築かないといけないんだぜ。あの泣き上戸にそれができるか不安なんだよ。」
「それこそ大丈夫だろ。遼太郎様のここぞという時の胆力は父上に勝るとも劣らないって、常日頃から父上が仰られているから。」
「・・竜之介様がねえ。何かの間違いじゃないかな。」
准太の奇襲が功を奏し、見事津軽軍の追撃隊を壊滅せしめた蠣崎軍は、兵力の半減した砦に総攻撃をかけ、砦に篭る守備隊を駆逐することができた。
「この砦は出城を築くまでの後方拠点として活用する。」
津軽方の砦に入った軍団長の伯楼はそう宣言した。これから本州側の軍事拠点の築城に係るが、それまでは攻略したばかりのこの砦を流用させてもらうつもりだ。幸い蠣崎全軍の兵を収容することが可能なだけの広さと設備は整っている。無論支城が完成した後は、無用の長物となるので放棄することになる。賊どもの巣窟になっても困るので、その際は火にかける予定だ。
いよいよ遼太郎隊による築城が始まった。当初の作戦どおり砦と大浦城の中間ぐらいの位置に支城を築く予定である。無論津軽家としては、本城の目と鼻の先に城を築かれてはたまらない。それを許しては西陸奥の北半分の領地の実効支配を手放したも同然である。すぐさま軍師・沼田祐光率いる1万1千余の軍勢が出陣してきた。それに対して、宇津井伯楼も遼太郎隊の護衛の為、砦に篭る1万6千の兵に迎撃を命じている。
「兵糧が心許ない。遼太郎殿・・・早く城を完成させてくれよ。」

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