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【2025/03/12 14:58 】 |
n049 信長元服 (細川家)15
細川晴元は摂津の地に、細川家の新拠点となる巨城を築くよう命じた。遼太郎、北田義孝、宇喜田直家といった築城に秀でた技術を持つ家臣が招集され、この一大プロジェクトを遂行することになった。わずか数ヶ月で築かれた城は晴元によって「大阪城」と命名され、晴元は今後この城で、政を進めることになった。
 ついに細川家による九州征伐が開始され、織田信長や十河一存らが、大内家や大友家の城の奪取に成功していた。また南信濃では竜之介が、駿河では晴雅が武田領の城を落としていた。着実に細川家が版図を広げていた最中、晴元の元に松平家から使者が訪れた。なんと同盟を反故するとの一方的な通告であった。
 よもや同盟国の裏切りに遭おうなどとは思っていなかった晴元は、その温厚な人柄にしては珍しく激昂した。先日松平家の要請を受けて、武田家との連戦を強いられたばかりである。


 晴元は即刻、近隣の清須城、駿府館の諸将に出撃を命じた。無理な徴兵が祟って、一揆の嵐が松平領のそこかしこで吹き荒れる中、細川勢はまっすぐに敵の本城を目指した。民衆の間でも評判の細川家の到来に、三河や遠江の地に住まう百姓達も歓迎し、細川の兵に食料を分け与える者や代えの草鞋を配る者が現れた。おかげで細川勢の進軍はすこぶる順調で、短期間で本城に迫ることが出来た。
 遠江の引馬城は、武田との攻城戦の傷跡が未だに残っていた。堀は破壊され、裸城となってしまっている為、篭城戦は不可能といえる。迎撃に出た兵も晴雅の用兵の前にあえなく壊滅の憂き目を見た。さすがに岡崎城では松平家の四天王がそれぞれ奮戦し、細川方と互角の戦いを演じていた。このまま投入した兵だけで三河攻防戦に挑むか、清洲城に武将を派遣して援兵を出させるか、はたまた高遠城から竜之介に長躯遠征させるか、引き馬城攻略後の晴雅に連戦をさせるか・・・晴元としては思案のしどころであった。
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【2015/11/21 23:15 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
n048 信長元服 (細川家)14
晴元の命を受けて、中国地方から大内家を駆逐するべく進撃を続けていた織田信長が、ついに山口館を陥落せしめた。副将の浅木信頼もそこそこ活躍したようだが、信長の前ではその活躍がかすんでしまうのは致し方のないことであろう。
 尾山御坊を落とした勢いで、神山朱音らは本願寺領最後の砦・富山城の攻略に着手した。途中、留守を狙って進攻してきた畠山勢に対し、一隊を反転させて迎撃し、難なく打ち破った。迎撃隊の将・滝川一益は七尾城に篭る将兵が僅かである事を察知すると、そのまま七尾城に攻め込み陥落させた。本隊が富山城を落としてから数日後のことになる。
  戦後、本願寺家及び畠山家の主だった将がことごとく細川家に仕えることになり、その中には絶世の美女と称される十川紅や桑部加世の姿もあった。遠征中の山中竜之介がその報を聞いて小躍りし、妻咲から冷たい視線を浴びせられたというのはまた別の話である。


 時を同じくして、細川家には松平家から高遠城の攻略及び遠江防衛の要請を受け、岐阜城にいる竜之介、咲らと清洲城の青山晴雅に出撃の命が下った。晴雅は遠江に進攻している武田勢を無視して本拠駿府館に攻め入るといった大胆な戦略を取り、結果として泡を食った武田勢が遠江攻略を断念することになった。一説には晴雅お得意の勘違いがたまたま良い方向に転んだだけという見方もあるが、戦場での彼の凄まじさについては皆が認めるところであり、主力をこの地に揃えていた武田家は思わぬ大損害を被ることになった。松平家を滅亡に追い込むどころか、最重要前線拠点が陥落の危機を迎えているのである。


 四国地方においては、黒瀬城に大友家が大挙して進攻してきているが、宇和島港周辺に配された鉄砲砦の数々を落とすことはおそらく不可能であろう。黒瀬城の守将を務める杉隆滋は、主力を一兵たりとも派遣する必要はないと考えていた。
【2015/11/19 02:46 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
n047 信長元服 (細川家)13
竜之介と咲がついに結ばれた。二人の婚儀に細川晴元が奥方を伴って出席したことで、式は大いに盛り上がった。久しぶりに集まった枚方衆による余興に場は沸き、振舞われた酒肉を大いに食らい、戦国の世の憂鬱さを吹き飛ばそうとしているかのように、其の日は朝まで笑いの絶えることがなかったという。

 年が明けて晴元が吉田郡山城への一斉攻撃を命じた。第二次細川包囲網の西の脅威をここらで取り除こうと考えたのである。四国の十河城、湯築城から計4万、播磨の姫路城、備前備中から計4万の大軍が四方から競うようにして毛利領への進攻を開始した。毛利元就、吉川元春、小早川隆景ら毛利の誇る智将・猛将・勇将が迎撃に出たが、さすがに数で押し切られてはどうしようもない。次第に兵を後退させていき、ついには吉田郡山城へと篭ってしまった。さらには細川家が繰り出した工作部隊が並行して毛利領内の各街や村の切り崩しに成功しており、吉田郡山城はまさに孤立無援となってしまった。
 季節が冬から春に変わろうとする頃、元就はついに抗戦を断念、細川家に対し白旗を挙げた。細川勢の大将村上武吉は敵の天晴れな戦いぶりに感じ入り、元就を初めとした敵将らの捕縛を解き、酒まで振舞って彼らの武勲を称えたという。この剛毅な振る舞いに毛利の諸将は感動し、細川家に忠誠を誓うことを約束した。
 この毛利攻めには浅木信頼という北水館出身の男が加わっており、大した武勲を立てた訳ではないが、何の因果か戦後の吉田郡山城の城主に着任している。中四国勢の猛者を束ねる器にはどうしても見えないのだが、それでも諸将が(表向きには?)文句を言わず従っているのだから、正に歴史の妙と言えるのかもしれない。



 毛利攻略の裏では、室町御所、石山御坊、小谷城から派兵された計6万の軍勢が朝倉を降伏させることに成功していた。さらには一色藤長の調略に応じ、尼子晴久が細川家の軍門に降っていた。
 ・・・こうして毛利家、朝倉家、尼子家と、立て続けに武田家以外の参加勢力が滅亡した為、ここに第二次細川包囲網は瓦解した。遼太郎や竜之介といった有力武将を東の備えに残したままこれらをやり遂げたのだから、細川武士の層は厚いといえるだろう。


 信仰の自由を許された細川領内では昨今寺社の建立が著しく、民による祭りが全国で見られるようになった。また細川領内では最新鋭の攻城兵器である大砲というものの開発計画が始まろうとしていた。南蛮から伝えられた技術に工匠らは驚き、苦戦しながらも実現を目指している。


 一乗谷での整備を終えた神山朱音ら越前勢が満を持して加賀への進攻を開始した。小谷城からの援兵も直に駆けつける手はずになっている。尾山御坊は早々に火の手が上がり陥落は秒読みとなったが、救援要請を受けた畠山勢が数十里先まで迫っているとの報も伝わっている。依然として予断を許さない状況だ。
 また再三の平和交渉にも頑として応じようとしない山名家に対しても、攻略を終えたばかりの弓木城と天神山城から計4万の軍勢が西と東から同時に襲い掛かろうとしていた。当主・晴元の平和への希求も空しく、本年の前半は血風が吹き荒れることになった。
【2015/11/15 23:15 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
n046 信長元服 (細川家)12
第二次包囲網の脅威も去り、細川領内には久方ぶりの平穏な日々が訪れていた。とは言え、次の戦乱に備え、諸将は鍛錬に明け暮れている。特に織田信長の鬼教官ぶりは有名で、教えを乞おうと連日のように人が訪れていた。
 

 その頃、室町御所では細川家臣団において謀略を担う南光坊天海が、波多野家と三木家の凋落ぶりを主君晴元に説いていた。諜報活動を進めた結果、当主波多野晴通や三木直頼に最早天下を狙う気概はなく、武田家や当家への恭順を促す一派さえ家臣に現れているというのだ。報告を聞いていた晴元は早速彼らを取り込むべく手を打つよう指示をした。三好長慶、北畠晴具がそれぞれ調略に赴くことになったが、およそ半月後には彼らから吉報が齎された。双方共に細川家取込に成功したとのことだった。


 岐阜城では竜之介と咲が城下町の整備に共同で取り組んでいた。一時の脅威が去ったとは言え、まだまだ武田家の底力は脅威である。岐阜城を東国の荒波から細川領全土を守る防波堤とし、かつ東国に攻め入る際には前線拠点とするべく、一刻も早くこの美濃の地を栄えさせる必要があった。領民と一緒になって、荒地の開墾や寺の建立などに当たり、共に笑い、共に悩み、美濃の為に何とかしようと必死になっているうちに、二人の信頼関係はより深くより強固になっていくのだった。
「そこのお新香、取ってもらえるかな。」
「やだ~竜之介さんったら、ほっぺにごはん粒が付いてますよ。」
 お昼ごはんの最中のやりとりもすっかり夫婦漫才のようになりつつある。先日村の子供たちにもそのことでからかわれ、二人は顔を赤らめたものだ。この人となら・・二人の間に大きくなっている気持ちはすっかり不動のものになりつつあった。
【2015/11/14 12:34 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
n045 信長元服 (細川家)11
再び、細川家への包囲網が結成された。盟主を甲斐の武田晴信とする今度の包囲網には尾張の織田、越前の朝倉、安芸の毛利、備後の浦上家、南伊代の西園寺家、そして西土佐の一条家が参加している。
 晴元は包囲網の切り崩しの為、浦上家に降伏を迫ることにした。姫路城に兵を集め、圧力をかけつつ時を見計らった上で、満を持して使者を派遣したところ、当主・浦上宗景はあっさりと白旗を上げたものである。


 西の調略が奏功した途端、東では武田家と織田家が侵攻を始めたとの報が伝わった。それに呼応するかのように、北では朝倉家が本拠一乗谷城と弓木城からそれぞれ兵を出し、西からは毛利家、西園寺家と一条家も出撃準備を始めたとの知らせが入った。晴元は予め各地に配しておいた諸将にそれぞれ迎撃を命じた。


 いち早く戦果を挙げたのは、先に晴元が次女扇を娶らせた十河一存率いる岡豊城の面々であった。一存と杉隆滋率いる足軽隊が競うように一条勢を撃破し、余勢を駆って防備の手薄となった中村御所に攻め込んだのだ。多くの傷兵を出しているようだが、陥落は時間の問題であろう。
 

 支城・長島城を築城し、城主として着任していた遼太郎は鉄砲隊を率いて織田勢にかなりの手傷を負わせることに成功した。織田信長は自軍の被害が大きいことを悟ると、早々に退却を各隊に指示した。その手際は見事といえるもので、遼太郎も深追いを避け、長島城の東にいくつかの櫓を建設してから城に帰還した。織田勢の再度の侵攻は当面ないと見て間違いなさそうだ。

 
  湯築城は毛利勢と西園寺勢との二正面戦線を強いられていた。十河城から7万もの援軍を得て、守将・村上武吉は隊を大きく2つに分け、それぞれ毛利勢と西園寺勢に当たらせることにした。すでに要所には砦と櫓を建設済みで、それら防衛線での攻防が繰り広げられている。特に毛利勢は総大将・毛利元就自らが出張ってきており、注意が必要だった。
  
 
 朝倉勢は先述のとおり、二方面から兵を展開してきたが、観音寺城と小谷城からそれぞれ迎撃の兵が出陣した。砦での攻防があったものの、朝倉勢が早々に弓木城へ兵を引き揚げた為、主力を温存できた観音寺城勢は、兵が皆出払っている為、守りが手薄になっている小谷城への入城を目指している。岡田三郎太および長尾咲率いる小谷城勢は一戦して朝倉勢を大破し、現在一乗谷城へと撤退を計る朝倉勢を追撃している。早晩攻城戦が展開されるだろう。
 追撃戦の最中、咲は出陣前の僅かな余暇を利用して、竜之介と芝居見物に興じたことを思い出していた。芝居に誘ったのは竜之介の方だった。遼太郎と桜姫の祝言以降、遼太郎のことを好いていた咲はしばらく失意の日々を送っていたが、北近江の地で過ごすうちにその悲しみも幾分か和らいできていた。見物した芝居は純粋に面白かったし、誘ってくれた竜之介の気遣いも嬉しくて、とても楽しい一日だった。声を上げて大笑いしたのはおそらく久しぶりのことだったろう。
 出陣前夜、景気付けと称して酒を持って訪れた竜之介に、再会を期して咲も少々付き合った。それぞれ違う方面への出撃になるわけだが、互いに無事で会えたらと思う。咲自身もまだ気づいていない心境の変化が生じていた。
 

 最も多くの兵を繰り出してきたのが、武田家である。勇将・磯野員冒は地元の百足衆を味方につけ、合わせて3万近い兵を動員してきたのだが、対する竜之介は足軽に長じた足利義輝や柳生一族を率いて足軽主体の編成で出撃した。砦からの支援もあって、難なく敵軍を蹴散らした竜之介達はさらに武田領へと進攻し、岐阜城へと迫った。岐阜城からは明智光秀隊が迎撃の為、出陣してきたが、近隣の村々を懐柔しながら堅実に寄せてくる細川勢の手際に老練さを感じ、侮りがたしと判断して、一戦も交えずに帰城してしまった。
 知らず若くして年寄りくさいと評された竜之介だったが、当人はいたって真剣だった。何せ強大な武田家との大事な緒戦である。細川家手強しと精神的負い目を感じさせるぐらい圧勝する必要があると考えていた。この時、傍らにいた百戦練磨の柳生家厳・宗厳父子にして少々怯ませるほどの凄みを竜之介は放っていたという。
【2015/11/09 02:34 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
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