細川家では三大派閥が主導権争いを繰り広げていた。
・細川持隆を首魁とする一門衆
・三好長慶を首班とする重臣派
・松永久秀を代表格とする革新派
北水館出身者は今のところ、いずれにも与していない。
各派閥にしてみても、若輩者を相手にしていなかったというのが本音だが、この1年で数々の成果を上げた彼らが無視できない存在になりつつあるのは確かだった。
秋の重臣会議にて、細川家は富国強兵を全面的に推し進めることが決定された。
領内の町では、優遇政策により大商人を次々と誘致し、寂れた自由市がより活気の見込める商館街へと生まれ変わっていった。また沿岸地域では、漁業技術が見直された結果、放棄された畑の代わりに漁戸が次々と立ち並ぶようになった。
これらの施策により、より多くの金と兵糧の増収が見込めるようになっている。
軍事面では窮屈な兵舎が取り壊され、戦場での立ち回りを教示する道場施設が付加された大兵舎が建設された。
そして岸和田城では当主晴元の陣頭指揮の下、改築が進められ、本丸に御殿が建設された。眼下に攻め寄せる投石攻撃を容易に行えるようになり、防衛力がより強化された。

それらの陰で、密命により大西頼武の指揮する工作隊が、紀伊に向けて着々と行軍路を敷設していた。作業は雑賀城にいる鈴木家に気取られぬよう、慎重に進められた。
そんな中、細川晴元は正式に紀伊攻略に乗り出す決意を家臣達に伝え、準備を進めるよう指示をした。いずれ組織される遠征軍の指揮をとる大将には、驚いたことに軍事奉行である竜之介が命じられた。しかも大将が無位無官では様にならないという理由で、竜之介には従七位の下・典膳が与えられたのだった。

この晴元の独断には、各派閥から非難の声が上がったことは言うまでもない。
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