遼太郎の発案で、細川家では全国に先駆けて「木版印刷」が導入された。行政の効率化を促し、主君晴元と長女桜姫から大層喜ばれた遼太郎は、一層の働きを見せることを誓ったのだった。
季節が移ろい、年が改まると、細川家では大規模な人事異動が行われた。
河内和泉、阿波、讃岐の全家臣が目まぐるしく配置換えをすることになったのである。
引継ぎが慌しく行われ、一時は家中の混乱を生み、そのような指示をした重臣・三好長慶の判断を疑う者も現れたが、それを公然と口にする者はいなかった。

長慶は細川家中でも大勢力を誇る三好一党を率いる重鎮中の重鎮だが、
良からぬ噂を持つものとしては久秀とまさに双璧を成していた。
だが、そのような大混乱を生んだ配置換えだが、思わぬところで適材適所を証明した者もいたのだった。
その筆頭と言えるのが、北田義孝であろう。
宮廷工作の任を与えられた彼は、細川家の収入の実に15%に及ぶ資金を朝廷に献上することを進言し、晴元の許しを得ると、生来の人当たりの良さも生かして左大臣の子・菊亭晴季に接近し、見事細川家に典膳の官位を与えられるよう取り計らったのである。室町幕府の役職としては管領という高みに上り詰めた晴元も、朝廷から下賜される官位は従四位の下・右京大夫止まりであり、従七位の下とは言え、家中の者を自由に典膳の位に就けられるようになったことは、公卿連中への影響力が増したことを意味していた。

このことは晴元を大いに喜ばせ、細川家の経済力を向上させた先の遼太郎や軍備の増強に余念がない竜之介とともに北水館出の若侍たちの覚えを目出度くしたのであった。
細川家にはなおも明るい話題が続いた。
晴元の子・重盛と長慶の弟・十河一存と細川家の将来を担う若武者が元服を果たしたのだ。

だが家臣の中には主筋の重盛よりも、先に一存の元服を寿ぎに三好の邸宅を訪れる者も現れて、 まるで主従が逆転したかのような光景であった。
そんな中、桜姫の髪結いの儀がつつやましくも行われたのだが、
それを大仰に喜んだのは遼太郎ぐらいだったかもしれない。

桜の花びらが舞い、春の訪れがあちこちで感じられる頃、遼太郎は軍事奉行に就任し、同列の竜之介や杉隆滋と計らい、兵に持たせる三間槍を開発した。これまでに類をみない長槍の開発は、細川家の戦場での強さに大いに貢献すること、疑いようもなかった。

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