山中竜之介を総大将とする細川勢は紀伊への侵攻を開始した。北水館時代の後輩・岡田三郎太らの活躍もあり、見事雑賀城の攻略に成功したのだった。
雑賀城に入った竜之介は、鈴木家の主だった面々の投降を受け入れた。本国の裁可を仰いだ結果、彼らは皆、細川家の傘下に組み入れられることになった。広大な紀伊の地を手に入れ、勇猛果敢な武将の取込にも成功した細川家の名声はますます高まり、管領晴元は名ばかりでなく実を伴うことを世に知らしめることに成功した。
遼太郎の活躍もあって、雑賀城の修復をあっと言う間に終えることができ、すぐさま紀伊に広がる荒野の再開発を推し進めることに決まった。たちまち各地の諸将が雑賀城に集められ、事前に開かれた評定では、細川家の今後の方針について討議が繰り広げられた。
口火を切ったのは一門衆筆頭の細川持隆である。彼は寺社を保護する有用性を説いた。
「戦乱の世にあって、人心を安定させているのは、御前で申し上げるのも憚りながら、僧らによる教義に因るところ大である。先の戦で荒廃した紀伊の人心を掌握するためにも、今こそ寺の建立を推し進めるが良かろうと存ずる。それにより民の心の平穏を取り戻せば、紀伊の地への民の定着を促し、引いては収入基盤の確保が約束され、我が細川家の行く末は磐石となるであろう。」
対抗するように重臣・三好長慶は声を張り上げた。
「僧を加護しすぎると、一向宗門徒らの支持により強大化している隣国・本願寺家の驕慢を助長することになりはせぬか。そのような利敵行為を黙って見過ごすことはできぬ。それよりも紀伊の地を後方支援の要とし、金・兵糧の一大生産地とすべし!」
また革新派からは角度の異なる提案がなされた。
「主力である足軽隊を強化するには皮布の一層の確保が必要でしょう。ただ領国内唯一の生産地・阿波から供給される量だけではとても足りませぬ。ここは本願寺家の有する皮布生産地を奪取するのが宜しいかと。」
喧々諤々の議論が交わされた結果、それぞれの案を一部取り入れる折衷案がまとまった。
すなわち紀伊の商人町、農村の復興と寺社文化の振興、それに皮布生産地を有する本願寺家の攻略準備を開始するというものであった。
さっそく兄・長慶から命を受けた十河一存は岸和田城への帰還を果たした後工作隊を編成し、摂津内の行軍路の敷設作業を開始した。それは敵砦の策敵範囲のぎりぎり外を迂回するという危険を伴う作業であったが、一存はいささかも動じる気配を見せなかった。

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