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【2024/04/20 13:33 】 |
n047 信長元服 (細川家)13
竜之介と咲がついに結ばれた。二人の婚儀に細川晴元が奥方を伴って出席したことで、式は大いに盛り上がった。久しぶりに集まった枚方衆による余興に場は沸き、振舞われた酒肉を大いに食らい、戦国の世の憂鬱さを吹き飛ばそうとしているかのように、其の日は朝まで笑いの絶えることがなかったという。

 年が明けて晴元が吉田郡山城への一斉攻撃を命じた。第二次細川包囲網の西の脅威をここらで取り除こうと考えたのである。四国の十河城、湯築城から計4万、播磨の姫路城、備前備中から計4万の大軍が四方から競うようにして毛利領への進攻を開始した。毛利元就、吉川元春、小早川隆景ら毛利の誇る智将・猛将・勇将が迎撃に出たが、さすがに数で押し切られてはどうしようもない。次第に兵を後退させていき、ついには吉田郡山城へと篭ってしまった。さらには細川家が繰り出した工作部隊が並行して毛利領内の各街や村の切り崩しに成功しており、吉田郡山城はまさに孤立無援となってしまった。
 季節が冬から春に変わろうとする頃、元就はついに抗戦を断念、細川家に対し白旗を挙げた。細川勢の大将村上武吉は敵の天晴れな戦いぶりに感じ入り、元就を初めとした敵将らの捕縛を解き、酒まで振舞って彼らの武勲を称えたという。この剛毅な振る舞いに毛利の諸将は感動し、細川家に忠誠を誓うことを約束した。
 この毛利攻めには浅木信頼という北水館出身の男が加わっており、大した武勲を立てた訳ではないが、何の因果か戦後の吉田郡山城の城主に着任している。中四国勢の猛者を束ねる器にはどうしても見えないのだが、それでも諸将が(表向きには?)文句を言わず従っているのだから、正に歴史の妙と言えるのかもしれない。



 毛利攻略の裏では、室町御所、石山御坊、小谷城から派兵された計6万の軍勢が朝倉を降伏させることに成功していた。さらには一色藤長の調略に応じ、尼子晴久が細川家の軍門に降っていた。
 ・・・こうして毛利家、朝倉家、尼子家と、立て続けに武田家以外の参加勢力が滅亡した為、ここに第二次細川包囲網は瓦解した。遼太郎や竜之介といった有力武将を東の備えに残したままこれらをやり遂げたのだから、細川武士の層は厚いといえるだろう。


 信仰の自由を許された細川領内では昨今寺社の建立が著しく、民による祭りが全国で見られるようになった。また細川領内では最新鋭の攻城兵器である大砲というものの開発計画が始まろうとしていた。南蛮から伝えられた技術に工匠らは驚き、苦戦しながらも実現を目指している。


 一乗谷での整備を終えた神山朱音ら越前勢が満を持して加賀への進攻を開始した。小谷城からの援兵も直に駆けつける手はずになっている。尾山御坊は早々に火の手が上がり陥落は秒読みとなったが、救援要請を受けた畠山勢が数十里先まで迫っているとの報も伝わっている。依然として予断を許さない状況だ。
 また再三の平和交渉にも頑として応じようとしない山名家に対しても、攻略を終えたばかりの弓木城と天神山城から計4万の軍勢が西と東から同時に襲い掛かろうとしていた。当主・晴元の平和への希求も空しく、本年の前半は血風が吹き荒れることになった。
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【2015/11/15 23:15 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
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