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【2024/04/20 04:28 】 |
n040 信長元服 (細川家)6
 洛中攻防戦が始まった。細川勢はほぼ北水館出身者で構成される枚方衆(根拠地は枚方城)が中心となって、京の都に押し寄せた。対する足利家は剣豪将軍・義輝が自ら剣を取って前線に立ち、抗戦を繰り広げた。文字通りの死闘が繰り広げられ、細川勢にも壊滅する隊が現れた。

    そんな中、隆滋の撹乱工作が奏功し、御所の守備兵が浮き足立った隙をついて、遼太郎の放った忍びが城内に侵入した。そして御所内の武器庫などの要所に次々と火を放っていく。
「御所に火の手が上がったぞ!もう駄目だ!」
 更に足利の手勢に扮した忍びが絶望的な悲鳴を上げて、周囲の兵に恐怖を伝播させていった。
それにより足利勢の一隊が壊滅したが、義輝の統率力所以か。一気に瓦解しないところは流石である。それどころか細川勢の一隊が逆に壊滅させられてしまうほどだった。
 

「流石だな、将軍の肩書きは伊達じゃないってか。」
「ふん。これから死す者に褒められてもうれしゅうないわ。」
 激しくうちあう義輝と竜之介の死闘はまだ決着がつきそうにない。
 その時、細川陣中から法螺貝が鳴り響いた。思わず振り向いた人々の目に映ったのは大きな黒い塊のようなものが洛中になだれ込んでくる様子だった。それは甲冑をまとった兵士の大軍だった。石山御坊からなんと1万もの増援が到着したのである。おかげで石山御坊はほぼもぬけの殻になってしまったが、そう待たずして岸和田城から守備兵が到着する手筈になっている。昨今勢いを増している重臣派に借りを作るのは癪だったが、背に腹は変えられない状況だった。この洛中攻略戦は枚方衆にとっていよいよ総力戦となり、この増援で押し切れなければ後がないため必死だった。
「援軍じゃあ。これで我らの勝ちは約束されたぞ!この勢いで一気に攻め立てろ!」
 遼太郎の指示で兵達が次々と己を鼓舞し、敵を煽りたてた。これまで一進一退の攻防が繰り広げていたが、ここに来てようやく細川方が優勢になりつつあった。義輝は竜之介との勝負に見切りをつけ、兵をまとめて御所の守りを固めた。ここが正念場とばかりに杉隆滋が兵達に檄を飛ばした。
「衝車を前面に押し出せ。弓隊は突貫隊の援護を行え。出し惜しみすることなく、すべての矢を打ちつくすのだ。かかれえ!」

 戦は最終段階に突入した。劣勢になってもまだ士気が下がらない足利勢と、死力を尽くして攻勢をかける細川勢との意地の張り合いのようなものだった。義輝は戦の前に全国の諸将に放った檄文が功を奏してくれることに最後の望みをかけていた。ここで守備を固めて戦を長引かせれば、管領細川晴元の名声は謀反人の名と共に地に落ちる。足利家に恩義を感じている大名が援軍にかけつけるかもしれない。例えそれが欲にまみれた者であろうとも。だが、残念なことに2ヵ月が経過しても足利方に援軍を寄こす大名は現れなかった。義輝は失意のうちに足利家のおかれている状況を再認識したのであった。義輝が和議を申し入れたのはそれから数日後のことであった。
 義輝の命と引き換えに、将兵達の命を救って欲しいとの申し出を遼太郎は突っぱねた。
「真の将軍たる器であった武人の生を散らすわけには私にはできません。義輝殿には恥を忍んで生きる道を選んでいただきたい。そうでなければ皆殺しにしますよ。」
 将兵の命を質にして、暗に義輝の自害を食い止めたのである。そしてそれが分からぬ義輝ではなかった。熟考の末、彼は細川家の軍門に下ることを決意した。ここに足利家は終焉を迎えることなり、洛中は細川家の支配下におかれることになった。

 
 義孝の工作もあり、朝廷からは、此度の戦勝に対して、細川家に労いの使者が遣わされた。さらにもし晴元が望めば公卿の斡旋で、全国の有能な士を召し抱えることも許されたのである。この戦国の世にあって、優秀な人材は全国のどこにでもいるはずだった。だがそんな彼らも伝手や運がなければ、仕官は敵わない。不遇の時を過ごしている者はたくさんいるはずだった。


 枚方衆が室町御所の修繕や洛中周辺の防衛に追われている頃、ようやく久秀ら革新派が讃岐の一揆を鎮圧した。荒廃した農村を復興させるにはまだまだ時間がかかるだろう。そして一門衆からは筒井家に寝返る家臣が現れて、ますます立場を悪くしていた。


 この機に乗じて今唯一勢いのある重臣派が、次々と自身の掲げる政策を展開し始めた。その一つが領内における「関所の撤廃」である。これが実現すれば、納税の義務を軽減された商人たちの交易が活発になるはずだ。そしてもう一つが「製図」を作成し、領内の細川家御用達の鉄砲鍛冶に配布することだった。強力な武器である鉄砲の生産技術はまだまだ未熟だが、製図が完成すれば生産力は飛躍的に向上するはずである。


 南蛮からの異教徒文化の伝来により、日本各地で「きょーかい」なるものが建てられ始めた頃、洛中では疫病が流行りはじめた。枚方衆もそれは例外ではなく、多くの将兵が病に倒れていった。
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【2015/10/31 22:22 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
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