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【2025/03/12 02:05 】 |
n054 信長元服 (細川家)20
いよいよ本格的に南部家攻略が始まった。三戸城の攻略後、遼太郎、竜之介、晴雅ら主だった枚方衆の面々が陸奥に集結し轡を並べて、石川城、十三城といった南部方の出城の攻略に取りかかったのだ。南部家も蘆名盛氏や島津貴久といった名将に数万の軍勢を預けて迎え撃たせたものの、すべての戦に惨敗を喫し、ついに陸奥は細川家により平定された。
 遼太郎らはさらに十三城を拠点として、蝦夷への進攻の為に大船団の建造に取りかかった。船大工らによって慌しく、鉄甲船が作られる様を見届けながら、遼太郎、竜之介はこれまでの日々を振り返っていた。
「とうとうこんな所まで来ちまったなあ。」
「武士になったばかりの頃は、まさか天下の大軍勢を率いて、蝦夷の地を攻略するための作戦を練ることになるなんて思いもしなかったよ。」
「そうさなあ。大臣なんて肩書きもらって帝に言上したり、戦場で数多の名将を敵に回して駆け引きやったり・・いろいろあったよな。」
「細川家に仕官したばかりの頃は持隆様、長慶様、久秀様がそれぞれ派閥作って、細川家中で権力争いしててさ、新人の俺らにはとても出る幕なんてないって思ってたし。」
「あれから13年。無我夢中で働いてきたけど、もうすぐ夢が叶うんだな。」
「ああ、天下万民に安寧の日々を齎す・・ってやつな。」
「あんまり大それたことは言えないけど、それでも一人でも多くの人に笑顔になって欲しくてがんばってきたんだ。」
「この戦が終わったら、枚方で北水館のやつら集めてさ、派手に騒ごうぜ。」
「いいねえ。そういえばあの辺も最近は賑やかになってきてるらしいよ。出入りの南蛮人曰く、なんかジョーサイってのとセードウってのが建ったらしくてさ。連日、見物客でいっぱいみたいだ。」
「なんだそりゃ(笑)」
「ま、一度行ってみようよ。文化施設が一堂に介してる光景が見られるのも、他にないって話だからさ。」


 その後、大船団の建造を終えた細川軍は海を渡り、蝦夷の地へと押し寄せた。すでに南部家には彼らに抵抗できる兵はなかったが、当主南部晴政は再三の降伏勧告を受け入れず徹底抗戦の構えを見せたためである。遼太郎は示威行動に出るだけで済めば・・と願っていたが、やむなく出城の攻略にかかるよう兵に命じた。わずか千程度の南部兵が立てこもる城に数万の兵が押し寄せ、怒涛の如く攻城戦を展開した。結果、あえなく城は陥落し、細川方は蝦夷の地に橋頭堡を構えることができたのである。南部方の本城徳山館は目と鼻の先であり、すでに周辺の町も細川への忠誠を誓う旨を申し出てきている。


 その頃、小田原城では晴元が相馬領・磐城周辺の西川城、黒川城、太田城、宇都宮城に大規模な改修を命じ、守りを強化するように命じていた。また国境には砦や櫓を幾重にも建てさせていた。同盟国・相馬家に不審な動きが見られるとの情報を入手した為である。
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【2015/12/06 06:03 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
n053 信長元服 (細川家)19
失策が続き、苦戦を強いられたものの、何とか押し寄せる伊達・蘆名連合を撃退し、そのままの勢いで蘆名家と里美家を滅ぼすことができた。ようやく一息つけた晴元は細川藤考の献策を入れて、小田原城の大改築を命じた。
 

 この頃になると、細川家の威を恐れた大崎家、伊達家、安東家が次々と降伏を受け入れ、さらに相馬家が同盟を願い出てきた。先の蘆名家・里美家吸収時も含め、合わせて100人近い大量の家臣が一気に細川家に組み込まれることになった。伊達家の宿将となっていた武田晴信もこの時、過去のわだかまりを捨て、細川の軍門に下っている。晴元は思案の結果、東北の各城に彼らを配置し、北方の雄・南部家の攻略と東北の地の鎮撫に当たらせることにした。



 数ヵ月後には北田義孝らの懸命の働きの結果、小田原城の大改築が終了し、大阪城と並び日本有数の巨城の完成である。このことは関白・管領を兼務し、六百万の兵と枚方衆を初めとする数多の勇将・猛将・智将を配下に従え、名実ともに天下人と称されるようになった晴元の名声をさらに高めることになった。


 細川家の敵は南部家だけとなり、さっそく三戸城には、竜之介率いる精鋭3万が押し寄せた。防御施設も貧弱で、城兵もわずかしかいない三戸城が早々に落ちるのは火を見るよりも明らかであった。


【2015/12/05 10:33 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
n052 信長元服 (細川家)18
細川方の一大反抗作戦により武田の支城が次々と落ち、残るは新発田城のみとなった。武田晴信は最後の一兵になるまで戦うほどの気概で最後の抵抗を試みたが、趨勢は明らかであった。すでに離反者が相次ぐ武田方の兵には、主君ほどの覚悟を以ってこの一戦に臨む者はなく、竜之介らの度重なる巧みな篭絡作戦もあって、投降者が相次いだ。武田家はほぼ自壊により滅亡したのである。武田方の諸将は細川に降伏し、許されて細川の末席に名を連ねることになった。だが晴信は頭を下げることを良しとせず、逃亡した。彼の行方は杳として知れない。またそれを知った風魔小太郎もまた隙をついて脱出し、姿をくらました。北条家を陰から支え続けた男が、何故晴信の動きに呼応したのか理由は誰にも分からなかった。


 武田という強固な壁を取り除いた先に見える東北は、有象無象の大名が覇権を争う混沌の地であった。この地に住まう弱小大名は細川に与するか、抗うか存亡に関わる究極の二択を迫られることになった。そして遼太郎のかねてからの調略が奏功し、まず佐竹家が細川の軍門に降ったのであった。


 竜之介は新発田城下の戦後処理中の隙をついて、領土拡張を狙ってきた伊達軍を追い払い、そのままの勢いで山形城を攻略するべく敵軍の追撃を続けた。だが国境を越え、北羽前の地に入った際、伊達家に協力する鉄砲匠の集団が住まう隠れ里が近隣にあることを知り、彼の地の制圧を優先するよう配下の将に伝えた。伊達の強さの源である鉄砲を奪うことは城ひとつを落とすよりもはるかに効果的であると踏んだのである。
 また米沢城攻めを命じられた佐々成政隊は、南羽前の地に入ったところで、蘆名家の援軍が接近中との報せを受けた。伊達晴宗の要請を受けて、米沢城攻略中の自軍の背後を付く狙いのようである。挟撃の窮地に立たされたはずの成政隊であったが、実は蘆名の出兵こそが細川方の真の狙いであった。成政隊の動きに連動して、宇都宮城からは織田信長が蘆名の根拠地である黒川城へと軍を進めているのだ。成政隊は反転して、蘆名勢を討ち、手薄になった黒川城へ信長が軍を進め、徐に外交の使者が訪れるという算段である。ただ信長には状況に応じて、進攻先を磐城や常陸に変えても良いとの指令もあった。関東平定の戦略は、遼太郎ら細川方の参謀により幾重にも編まれ、いかような変更にも柔軟に対処できるよう準備されているのであった。
【2015/11/29 07:13 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
n051 信長元服 (細川家)17
咲が心身ともに疲労困憊しながらも何とか敗残兵を纏め上げ、武田勢の追撃を振り切って命からがら高遠城に逃げ帰ることができた。妻の無事を祈るように願っていた山中竜之介はことのほか再会を喜び、感涙して抱き合った。
 そして数週間後には、足利義輝ら精鋭と共に復仇戦を挑むべく、葛尾城へと出立した。その動きに呼応して駿府館からは遼太郎らが小田原城攻略の為の兵を挙げることになっている。一大反攻作戦の始まりであった。
 葛尾城にて、しばらくは諸将らとともに久々の勝利の美酒に酔いしれていた武田晴信だったが、細川兵再来の報を聞き早々に戦支度を整えていた。名将の称号は伊達ではなく、細川勢が押し寄せる頃には城の修復を完了させている辺りは流石というほかない。だが、その名将の采配をもってしても今度の細川方の強健ぶりには劣勢を余儀なくされていた。
 強い、迅い、固い・・どれをとっても先日の軍勢とはまるで違っていた。まるで、どこか全く違う軍勢と相対しているかのように、その変貌振りには晴信も驚かされていた。
「これが細川の真の実力というわけか・・。まさかこれほどとは・・。」
 竜之介の指揮により水を得た魚のごとく、細川方は自在に陣形を変形させ、戦場を蹂躙していた。野戦での迎撃に失敗した武田信繁は、篭城戦の支度をするよう兄に訴えたが、春日山城方面から岡田三郎太の軍勢が迫っていることを察知していた晴信は早々に葛尾城の放棄と後方への退却を全軍に命じた。「だが易々とこの城を落とせるとは思うなよ。」
 死兵と化した信繁率いる守備隊の頑強な抵抗に、さすがの竜之介も手を焼き、晴信はその間に長男・義信が守る箕輪城へと退却することができた。ほどなくして葛尾城がついに落ちたが、守将の信繁は脱出に成功し、捕縛されることはなかったという。竜之介は武田の勇将の活躍ぶりをむしろ称賛し、それ以上の追撃を行わず、葛尾城の修復と城下の民の鎮撫を傘下の将に命じた。こうして信濃平定戦は幕を閉じた。


 遼太郎らの攻撃により小田原城が落ちるのもほぼ同時だった。上杉謙信による迎撃すらも寄せ付けることなく、常に安定した戦いを見せたことで、遼太郎の戦場での名声も高まるばかりである。
 天下の名城が手中に入ったこと、今後東国の平定が控えていることを受け、細川晴元は居城を小田原に移すことを決め、一族と共に移り住んだ。大阪城には三好長慶を残し、後方支援に専念させることにした。小田原に移った晴元は、遼太郎らに早速城の改築と城下町の整備に当たるよう命じている。


 ここに来て、宿敵・武田家の凋落ぶりは火を見るよりも明らかになった。信濃、相模伊豆と2カ国を細川家に奪われ、里見家には武蔵の地を追われた現状に、一時の興隆は見る影もない。九州を制圧し、関東より西をすべて手中におさめた細川家との勢いの差は一層際立っていた。


 晴元は武田晴信をさらに追い詰めるべく、葛尾城より足利義輝隊、躑躅ヶ崎館より織田信長隊に出兵を命じた。指示を受けた二将は早々に兵の編成を終えるとそれぞれ岩付城、河越城への進攻を開始した。
【2015/11/27 01:10 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
n050 信長元服 (細川家)16
晴雅による単独三河攻略が成り、松平家は細川家の軍門に下ることになった。この一戦を持って彼の武勇は竜之介と比肩されるほどになっている。本人がその話を聞けば調子に乗る為、枚方衆の面々は表立っては口にしようとしないが・・。
 その頃、北田義孝の朝廷工作により、武田家が朝敵とされることになった。それにより武田晴信を盟主とする細川包囲網は瓦解し、武田家と誼を通じていた各国が同盟関係を相次いで打ち切るという事態になった。早くも武田家支配集落の民からも嫌煙ムードが漂っているとのことだった。


 義孝の調停工作はそれに留まらず、細川晴元の関白就任が決定した。晴元の念願であった朝廷の下で日本を一統する夢がまた一つ適ったのである。合わせて細川家臣団にも続々と高位が授けられ、中でも遼太郎は太政大臣に任命されるという栄誉を得た。


 晴元は九州を統一するべく、中国、四国から合わせて20万の兵をかの地に送り込んだ。細川家の威光に畏れを抱き、大内家、大友家、伊東家、相良家がこぞって降伏した。龍造寺家は再三の降伏勧告に応じなかった為、兵を繰り出し滅亡に追い込んだ。残る有馬家、肝付家にも兵を差し向け、島津家とは人吉城を挟んで既に攻防が始まっている。いずれにしても九州制圧は間近と言えるであろう。


 そんな中、細川家に凶報が飛び込んだ。岡田三郎太による春日山城奪取、山中竜之介による躑躅ヶ崎館奪取に続き、6万もの大軍を送り込んで行われた葛尾城攻略が失敗に終わったというのである。武田晴信自らが出撃して行われた迎撃戦はすさまじく、細川方の将の討死、捕縛が相次ぎ、部隊は壊滅、救援に向かった咲ら自身も必死の退却を続けているとのことだった。
【2015/11/22 23:31 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
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