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【2024/04/25 07:38 】 |
n072 夢幻の如く (蠣崎家)15

  1591年の冬以降、常陸を訪れた者は、必ず3つのことに驚かされる。
 1つ目は度重なる改築の果てに生まれ変わった勇壮なる太田城。2つ目はその太田城周辺に、京の都でもお目にかかれないほどの、綺麗に整備されただだっ広い平地。3つ目はその平地の中に建立された大社と南蛮寺と五重塔という、本来相容れることのない水と油の関係の如き、異教文化の象徴が共存していることである。

 ことの始まりは僅か3ヶ月前の晩夏に遡る。居を太田城に構え直し、関東の覇権争いに本腰を入れ始めた慶広の元に、南蛮からの外交使節団が訪れたのが始まりだった。使節団の代表・ジョアンヌはかのルイス・フロイスから洗礼を受けたカトリック教の信徒であり、熱心な宣教師でもあった。彼は、各地の大名が蓄財に余念がないことを十分把握しており、実利を齎すポルトガルとの交易を手札として巧みに利用しつつ、本命の日本での布教活動を推し進めていた。戦続きの荒廃した世にあって、民の心を本気で救いたいと考えており、並み居る戦国大名の中でも高潔な精神の持ち主として噂される蠣崎慶広に取り入ることを決めてやって来たのだった。
  
「じょあんぬ?・・ふむ、南蛮渡来のものか。」
「はい、そのものが我ら蠣崎領内においての布教活動の許可を願い出ております。まずは伴天連の教えを広める為の根拠地となる教会とやらの設立をしたいとか。」
「しかし伴天連の教えとやらは良く判らぬ。南蛮寺の建立なぞ、そう易々と認めることはできんな。」
「では追い払いましょうか。」
「待て。南蛮人との交易は莫大な富を齎すと聞く。九州の大友とやらは一代で巨万の富を得ることが出来たとか。宣教師の話を聞くぐらいはしようではないか。」

 こうしてジョアンヌとの面会に応じた慶広は、彼の高潔性と彼の語る崇高な教えに感じ入りつつ、南蛮との直接交易が齎す莫大な利潤を皮算用しながら、教会の建設を約束したのだった。

 その数日後・・・ 
「禅宗の首座を務める徳庵和尚が目通りを願い出ておられます。我らが太田城の麓に民の安寧を願って五重塔を建立したいとのこと。徳庵和尚は季安寺の造営にも並々ならぬご尽力を頂いた御仁にございます。どうか無下にはなさらぬよう。」
 「分かっておる。だが南蛮寺の件で、許可を出したばかりじゃ。問題は無いか?」
「良いのではありませんか。一方ばかりを優遇しては角が立ちます。領内での活動は自由に行わせるが、特段の肩入れはしない。彼らがそれぞれ領民の心を慰めるなら良し。蠣崎の繁栄と発展に貢献するなら尚良し・・ということで。」
「なんだか節操がない気もするが、良かろう。」
 こうして徳庵和尚に五重塔建立の許可を出し、蠣崎家が全面に支援する旨を伝えたのであった。

 だが事はそれだけで収まらなかった。更に数日後、またも慶広の頭を悩ませる事態が生じたのである。
「殿!関東一円の神道勢力を束ねられる磐座大宮司が目通りを願い出ておられます。」
「磐座様が・・?今度は一体なんだ。」
「大社建立を願い出ておられます。おそらくは先の教会と五重塔の建立着手に、蠣崎家が古来よりの神道を蔑ろにし、南蛮勢力と仏教勢力の拡大を助長していると危惧されているのではないでしょうか。」
「馬鹿な。埒もない。」
「しかし南蛮宣教師や僧侶の願い出を容認し、宮司のそれは否認するとなれば、不満が生じるのも已む無きことではありませぬか。」
「ううむ・・政とはこうも悩ましきものなのか。」
 そして慶広は半ば立腹している宮司を宥め、大社の建立を約束させられたのだった。

 こうして蠣崎領では当時の世相にしては珍しく、信仰の自由が認められ、仏教・神道・南蛮の教えがいずれも虐げられることなく、自由に広まっていくのである。武家社会では掬いきれない不安や不満の種が、それらによって解消、解決に大いに役立っていくのだが、この時の慶広達は何もそこまで計算していたわけではなかった。単に一部の勢力を不満を抱かせることのないよう、政が偏りを生じさせることなく均衡を為すように、バランス感覚を重視し、腐心した結果に過ぎないのである。後に名君と誉れ高い慶広ではあるが、案外政のきっかけとはそういうものなのかもしれない。

 とにもかくにも、太田城周辺には教会堂、五重塔、大社が建てられた。南蛮、仏教、神道勢力のいずれにも配慮した結果である。また武家が彼らに必要以上に卑屈になったと取られないよう、遼太郎や准太は太田城の改築を進めることを提案した。立派な建造物が城下に3つもあるのに、肝心の太田城がみすぼらしくては威厳が保てないというのがその言である。
 慶広はその進言を是とし、太田城の改築を進めることにした。早速家臣団を四班に分け、城下町の整備、二の丸、城門、本丸の改築担当を作った。彼らは競うようにして、作業に取りかかり、秋が終わる頃には、三大建立物周辺の平地化や太田城の二の丸、鉄城門、三層天守の造営などが完成した。脅威としか思えないほどの手際の良さであるが、蠣崎家臣団の有能、領主との蜜月関係がもたらす領民の積極的協力、目前の北条家に隙を見せない必死・・等多数の要因があればこそである。逆に言うと、どれ一つ欠けていても本事業は、ここまで迅速に結果を出すことはできなかったに違いない。
 太田城と3つの建造物の建立は、蠣崎家の財力と宗教への寛容さを国内外に示すものとなり、その名声は高まる一方であったという。特に隣国の北条家は、前線近くでそれをやる大胆さに度肝を抜かれると共に、みすみす攻める機会を逸してしまったことに歯噛みしたという。
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【2016/11/06 10:50 】 | 信長の野望 | 有り難いご意見(0)
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