
当主・蠣崎季広の薫陶を受け、鉱山採掘研究に励んでいた分部が新たな金山を発見した。多分に強運が味方したことも大きいのだが、この報は家中を驚かせ、とりわけ季広を喜ばせた。季広は分部を召しだして、「家中一の功名である。」と大いに彼の偉業を褒め称えた。感極まった分部は一層の忠勤を誓うのであった。


面白くないのは沼田祐光である。彼は蠣崎の経済をより発展させようと、数々の政策に取り組んでいた。そのうちの主なものが「大社振興」と「関所撤廃」の二政策である。大社振興により、古来より神仏への畏れを抱く人々の心の拠り所を作り、民の流入を狙うのがひとつ。人口を増やし、町を発展させようと言うものだ。更にもう一つの関所撤廃政策が上手く運用されれば、領内における人の往来が自由になり、経済発展の加速を期待できる。だが、素性不明なものを領内に招き入れ、そういった不審な輩の出入りを自由にさせる・・という負の側面があるのもまた事実である。そのことがいずれ沼田や季広に数奇な運命を辿らせることになるのだが・・・今はまだ神のみぞ知ることであった。
精力的に政策実施に取り組んでいた沼田だったが、残念なことに分部と違い彼は不運に見舞われてしまった。秋を迎えた頃、冷害により蠣崎領全土で農作物の収穫が激減したのだ。彼が日頃から農業よりも経済の振興を優先させていたことが完全に裏目に出てしまった。凶作防止の為、地道に稲の品種改良の取組を行っていれば良かったのだが、時間のかかる農業政策を後回しにして、比較的早期に結果の出やすい経済政策ばかりに取り組んでいたツケがとうとう回ってきたのだ。自然とこれらの政策主導をしていた沼田に批判が集まり、人徳のなさも手伝って陰口を叩く者も少なくなかった。当主季広からも「もっと先を見据えて政事に取り組むように。」と手厳しい言葉が告げられた。この時、沼田は奥歯を噛み締めながら胸の内の憤りを押さえていたという。
夏が終わり、秋に指しかかろうとする頃、蠣崎家で来年の稲の豊作を祈念し、神に供物を捧げる豊穣祭が催された。蠣崎家の一門衆や主だった重臣のみならず、下級武士や庶民に至るまで皆が参加する豊穣祭では、儀式の後に城下の至る所で無礼講の酒宴が開かれ、皆があちらこちらの宴に顔を出しては大いに笑い、語らい、踊り、酒を酌み交わすのだった。虎太郎は蠣崎家嫡男の慶広の館に招かれ、幾度となく慶広手ずから杯に酒を注がれた為、昼を過ぎる頃にはすっかり酔いが回り、別室に下がって眠り込んでしまった。酩酊する虎太郎の介抱を買って出たのは伊予姫である。健気な想いを知ってか知らずか、慶広は娘の申し出を許し、虎太郎の傍についていてやるように伊予姫に命じた。
別室で畳の上で熟睡する虎太郎の寝顔を観て、伊予姫はそれだけで胸がひどく満ち足りて幸せな気分になる。目をつぶって起きる気配がないのをいいことに、少しだけ顔を寄せてまじまじと見つめてみたりした。今この部屋にいるのは虎太郎と伊予姫の二人だけだ。しかも虎太郎はすやすやと寝息を立て、当分の間覚醒する兆しもない。
好きな人がすぐ目の前にいて、二人きりで、しかも自分の言葉を黙って聞いてくれる。またとない状況でいくらか大胆になった伊予姫はそっと自分の想いを告げるのだった。
「虎太郎様、伊予はあなた様のことをお慕いしております。初めてあなた様にお逢いしたときから、ずっと。」
爽やかに清清しく響く、実直そうな優しい声で告白し、伊予姫はそっと虎太郎の手を握るのだった。できればこのまま時が止まれば良い、ずっとこうしていたい・・伊予姫は目を閉じて、しっかりと虎太郎の手の温もりを感じていた。
伊予姫のようにすぐ相手の反応を気にして、自分の言いたい事を引っ込めてしまうような性格の者でも、今ならば考えた分だけを全部、声に出して言うことができる。本人を前にして、予行演習ができるなら、こんな願ってもないことはない。
「だから虎太郎様、あなたには誰よりも幸せになって頂きたいのです。虎太郎様のお気持ちが伊予に向いていないことぐらい、伊予にも分かります。でも伊予はそれでも構いません。だから・・・虎太郎様も好きな人にちゃんと好きって言ってください・・・。」
そこまでいうと、流れ出した涙を拭い、感極まった伊予はすすっと部屋を出て行った。そして部屋に一人残され熟睡していたはずの虎太郎は、そっと目を開け、「参ったなあ。」と呟きながらぽりぽりと頭を掻いた。


近年、日本各地の大名は、弱肉強食による弱者の淘汰が進んでいた。小大名は次々と大きな勢力に吸収されていった。蠣崎家も時代の荒波には逆らえず、周辺領主との駆け引きを余儀なくされていた。そんな中慶広は高水寺城より北陸前への敷設を開始した。大崎領への進攻準備である。
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