
織田家に対する粛清の嵐はまだ止まない。
大谷吉継や豊臣秀吉といった名だたる武将を捕らえるやいなや処刑して回った。
「捕虜・即・斬」
恐怖の3文字を掲げる大友家に対する織田家の怨嗟はいかばかりか。

大友家では領内での寺社の建立が相次いだ。
供養の為というのが名分だが、宗麟が切支丹である以上、あくまで織田家に対するポーズであることは言うまでもない。
そしてわだかまりが解けぬまま、ついに織田家は滅亡した。
当主信長は一時は捕虜になるも、逃亡。
行方は杳として知れない。

次に宗麟の覇道の前に立ち塞がったのが、徳川家である。
家康は周囲の小大名を言葉巧みに取り込むことに成功し、大連合を結成した。

その間、大友家は能登半島に篭る本願寺の攻略に成功。
多数の有能な門徒を取り込むことができた。

そして宗麟はついに大友幕府を開くことを決意した。
自身は征夷大将軍に就任し、一門衆や譜代の家臣を要職に就け、国内の全ての大名・民に威光を示した。

時を同じくして、徳川家攻略に着手。
それは織田家同様、粛清の嵐が再び吹き荒れることを示していた。
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